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かのひとの居場所


 あっという間にお盆も過ぎ8月も終わったが、酷暑はまだ続くらしい。「暑さ寒さも彼岸まで」は今年通用するのだろうか。

 お彼岸はもともと仏教用語だが、夏に行われる盆踊りも、盂蘭盆会(うらぼんえ)と言われるれっきとした仏教行事だという。それが土着の信仰や我々の日常と折り重なって、様々な夏祭りとなったらしい。

 夏には彼岸にいる死者をお迎えして渾然一体となり、秋には改めて彼岸にいる死者に挨拶をする。死者と比較的仲良しな日本らしい風習だと思う。

 死者が生者の近くにいるのは、どうやら日本の文化の特徴であるらしい。心理学には、継続する絆:コンティニュイングボンドという比較的新しい概念がある。死別後も、亡くなった対象の写真を部屋に飾り、その周辺に花や好物を供え、話しかけたりあいさつしたりするのは、私たちにとっては一般的なことだろう。

 しかし欧米ではそうではないという。写真は写真で、そのひとではない。キリスト教的な考えであれば、亡くなった人は神の御下にいて幸せになるはずで、しっかり別れを告げなくてはならないので、そういう人たちからするととても奇妙な振る舞いに見えるだろう。

 ちなみに「千の風になって」の詩は海外でも広く知られているが、それには「お墓にはいなくて、風になってるなんて!?」というかなりの新鮮さを伴ったのではないかと思う。

閑話休題。

 亡くなったひとやペットがどこにいるか、それは大きな問題だと思う。実際にはその距離感は人それぞれなのだろうが、文化や宗教、信条によって決められてしまうと苦しいような気がする。亡くなった相手がすぐそこにいるような気がしたり、日常に埋まるように過ごしている時、相手がいた痕跡を不意に見つけて切なくなったり、心は日々移り変わる。それはとても健やかなことで、今を生きる人にとって必要な働きだ。しかし亡くなってから長いこと涙が止まらないとかご飯も喉を通らない日々が長く続いているなどしたときには、その悲しみを共有してくれる誰かとゆっくり話してみるといい(そういう視点で見ると、初七日や四十九日など、何かにつけて集まって故人を偲ぶ文化は、悲しみを癒すための仕組みとしてよく出来ていると思う)。

 ところで先日、お盆の送り迎えをする精霊馬(キュウリやナスのあれですね)のかわりにスポーツカーやバスを用いる町の話を聞いた。車が選ばれた理由は、スポーツカーなら速く帰ってこれるし、バスはたくさんの親戚を乗せられるから、だそうだ。その町の人たちが笑顔でそんな話をしていて、こちらもほっこり楽しくなった。バスで景色を楽しみながら行き来出来るなんて最高である。
                       (C.N)
   

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