忘れないから思い出さない
「忘れないから思い出さない」。
この言葉は、私がペットロスを経験した方々の話を聞く中で見出したことである。死別を経験した人にとって、この言葉の響きは、どこか静かな優しさを含んでいると思う。
忘れたくない。でも、思い出すと苦しい。そんな矛盾の中で、人は少しずつ「いない日々」を生きる術を探していくからだ。
大切なペットを失ったとき、私たちは記憶にすがりつこうとする。声、表情、手触り、匂い――それらを失いたくないと願う。けれど同時に、心を守るためには、思い出さない時間も必要になる。四六時中亡くなったペットのことを思えば、悲しみの重さに押しつぶされてしまうからだ。
「忘れないから思い出さない」というのは、その狭間に立つ人の知恵である。忘れることではなく、心の奥に大切にしまい込む。必要なときに、そっと取り出せるように。そうやって人は、悲しみと共に生きていく。
ペットを失ったあと、私たちの心はすぐには現実を受け入れられないことのほうが多い。
朝起きて、ふと「ごはんをあげなきゃ」と思ってしまう。ちょっとした音に反応して「撫でてほしくなったかな」と錯覚してしまう。
それは、心がまだ“あの子がいない世界”に慣れていないから。
こうした時間を経て、少しずつ「もう会えない」という現実を受け入れ、それでもその子の存在を心の中に感じながら生きていく――その過程を、心理学では「喪の作業」と呼ぶ。
喪の作業とは、悲しみを忘れることではない。
愛していた時間を大切に抱きながら、“いない”という現実と、“それでも生きていく”自分の人生を、少しずつひとつに結び直していくことである。
それは忘れるのではなく「しまう」こと。記憶を閉ざすことではなく、胸の中で抱き方を変えることに近い。そうすると、死別の生々しい痛みは薄れていく。やがて、ふとした時に亡くした相手との思い出が蘇っても、涙と同時に温もりを運んでくれるようになるのだ。
「忘れないから思い出さない」――それは、悲嘆の中にいる人の知恵だと思う。
心の奥にそっとしまい込み、必要なときにだけ取り出す。
そうして、人は少しずつ、悲しみを抱えながら生きていけるようになっていくのだ。
小さな命との暮らしは日常の隅々に息づいているから、亡くしたペットの不在はひときわ深く響く。散歩の道、足音や息づかい、いつもいた場所の静けさ――すべてが「もういない」ことを告げてくる。
さらに言えば、ペットとの死別は人とのそれよりも軽く見られがちである。「ペットが死んだくらいでこんなにも悲しむ自分は弱い人間だ」と、死別したご本人も思っていることがあるほどだ。これが、ペットとの死別による悲嘆、いわゆるペットロスを長引かせる大きな要因の一つである。
たかがペット、ではない。そう言われて傷ついたり、あまりに強い悲しみを感じて眠れない、悲しみに心が長くとらわれているというような時には、遠慮せず我々心の専門家を頼ってほしいと思う。
大切な命を失ったあと、人は「忘れること」に罪悪感を覚えることがある。
けれど、それは本当に忘れてしまうわけではない。
心の奥で、ペットたちは形を変えて生き続けているのだ。不意に感じるぬくもり、季節の香り、空の色。
どこかで、自分を見守っているように感じる瞬間があるのではないだろうか。
「忘れないから思い出さない」という言葉には、生きていく者の祈りがこめられている。亡きペットを心に抱きながら、自分の人生を続けていく。そのために、思い出さない時間が増えていく。けれど思い出さないのは情が薄れたわけではない。
忘れないことは愛の証であり、思い出さないことは生き抜くための工夫なのだ。
ペットとの死別を経験した人にとって、忘れることは裏切りのように感じられることもある。けれど、思い出し続けることもまた苦しい。だからこそ、人は「忘れないから思い出さない」ことを選ぶのだと思う。
そこに至るまでの道のりが、時に孤独で辛いものになることもあることを、私は知っている。だから、みこと心理臨床処という場所が、悲しむ人のそばにあることを願っている。
どうかひとりで抱え込まずに、悲しみの中で少しずつ見えてくる“愛のかたち”を、一緒に見つけていければ、と思うのだ。
(C.N)
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