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HOME > コラム(note)のページ  >連載コラム『月曜日の処方箋』第39回

アートを楽しむ


 アートって難しい、と思う人は多いのではないだろうか。かくいう私もそのひとり。

 ピカソやゴッホといった、教科書に名を連ねる巨匠の作品であれば、なんとなく「価値があるものなのだろう」と思うが、現代アートの作家になると、主観的に好き・嫌いは言えても、客観的にそれが「良い」のか「悪いのか」、もっと言えば価値が「ある」のか「ない」のかさっぱり分からない。

 一度、大学生の時にバルセロナに行って、ピカソ美術館でたくさんのピカソの作品を見たとき、その上手さに圧倒され、やっぱりすごい画家なんだということを力づくで納得させられたような気持ちになった。その後、旅の間は、ピカソとピカソに似せた違う画家の作品は、見ればわかるようになった。(今はもうわからないと思うけれど。)

 でも結局、ピカソの何がすごいのか、自分の中で言語化することもなく、ちゃんと勉強することもなく、なんとなくすごかった、という記憶がぼんやりと残っただけだった。
 だからその後も、モネやルノワールといった印象派のキレイな絵が好きで、あとはよくわからないまま、ずっと過ごしてきた。アートを楽しむことは、勉強や仕事や日常生活に比べると、ずっと優先度が低いまま、何十年も暮らしてきて、もうこのままなのかなあと思ってもいる。

 だが、最近になって、にわかに美術館やらアートギャラリーやらに行く機会がちょこちょこと出てきた。依然、アートは全然理解できないのだが、理解できない理由は分かった。シンプルなことで、私が美術史を知らず、彼らの言語を知らないから、その作家の試みを、作品から読み取ることができないからだ。フランス語を一言も分からないのに、フランス語でスピーチを聞いても、熱意くらいは分かるが、内容がわからないのと同じことだ。

 私も、アートの言葉を知りたいと思って、美術史の本を買ったりもしたが、忙しさにかまけて開いてもいない。でも、アートについて知らないままでも、作品に心揺さぶられる体験はできる。

 DIC川村記念美術館(2025年3.31.運営終了)で見たマーク・ロスコ(1903-1970)。東京オペラシティアートギャラリーで見たミケル・バルセロ(1957―)そして、先月メキシコシティで見たフリーダ・カーロ(1907‐1954)の作品の数々。

 私は彼らの言葉が分からないから、最初は言葉抜きで、作品と向かい合う。そうしてただ向き合ったときに、心にボンッと飛び込んできた作品についてだけ、情報を求める。アートの言葉は分からなくても、歴史や、感情や、そのひとの人生を語る言葉なら分かるから、それについて読むと、作品に滲む、作家の意図が、少し見えてくる。同じ作家の作品を続けて見ると、さらにその人の意図が分かってくる。そうすると、作品を見るのがもっと面白くなる。特にフリーダは、彼女の人生を踏まえての、あの表現なのだ、ということが心にとても響く。

 相変わらず、完全なる門外漢の私にとって、アートの世界は、まるで知らない国を歩くようだ。準備の悪い旅行者の私は、その国の言葉もわからないし、歴史も知らない。けれど、そこで、はっと驚くような作品に出会うことがある。それが楽しい。その人は、なんでそんなことをしようと思ったのか、何を表現しようと思ったのか、説明してくれる人と一緒に歩けば、旅は意味深く面白くなるが、答えがわからないままというのもそんなに悪くない。

 次の、はっと驚く作品との出会いを求めて、私の異国探検は続く。そのうち、その国言葉をいくらかは覚えるかも知れない。
                            (M.C)

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