惰性で生きない
私は最近、惰性で日常を過ごすのをやめた。
朝起きてなんとなくテレビをつけ、ニュースを流し見して、空腹でもないのに時間が来たら何となく食事をとり、大した用もないのに夜ふかしをする——そんな“なんとなく”の積み重ねの中で、生きているのに生きていないような感覚が、少しずつ心を曇らせていたように思えたからだ。
あとは、いろいろな刺激に反射的に反応するのやめようと心がけているが、こちらはなかなか難しい。
常に中間姿勢でボールを待ち受けるように、そのボールが取れるか取れないか、どんなふうに取れたか、取ったあとどうするかとかそういうことには構わずに「とりあえず待ち構える」のをやめようとしているが、長年身についた姿勢を正すのは容易ではない。
反対に、習慣と化した「何となく」を遂行するのはとても楽だ。何も考えずに済む。
けれどある日ふと「もう少し、自分の感覚を信じてみてもいいのではないか」と思った。
それで、まずは惰性でテレビをつけるのをやめ、空腹を感じるまで食べないようにし、何となく夜ふかしをするのもやめた。
最初は、ぽっかりと時間が空いたようで落ち着かなかったけれど、その静けさの中で、少しずつ自分の呼吸や心の動きに気づくようになった。
お腹が空くまで待つと、身体が本当に求めているものや、胃腸の調子が分かりやすくなった。
テレビをつけないと、世界の喧騒から少し距離をとって、自分の中の声や考えを膨らませることができた。
夜ふかしをやめて早めに眠ると、翌朝の光がまるで違って見える。
惰性をひとつ手放すたびに、世界の輪郭がくっきりとし、感覚が研ぎ澄まされていくような感じがする。
惰性をやめるとは、自分を律することではなく、「自分を取り戻すこと」なのだと思う。
流れに乗るのではなく、流れの中で自分の足で立つこと。
それはささやかな挑戦だけれど、確かに生きている感じがする。
そんなわけで、今日も私は、自分の意志で「見る」「食べる」「眠る」を選ぶ。
そうやって少しずつ、惰性ではなく、意志で生きる日々を重ねていきたいと思う。
もしそうやって選んでいくことに疲れたら、その時はその時、と思いつつ。
(C.N)
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